諏訪市上社本宮近く、静かな住宅街にネパール家庭料理を供するレストラン「Spice Café Ananda(スパイス・カフェ・アナンダ)」があります。古民家のかまえをそのまま生かしたお店は周囲にしっくりとなじみながらも、白い暖簾がきりっとした清潔感を漂わせています。古道具で調えられた居心地のいい店内で、店主の北原美佐さん、ニール・バハドゥール・ラマさんご夫婦に、出会いから諏訪に住むまでのこと、お店のこと、ネパール料理のことなどを伺いました。
美佐さん/私は茅野市で生まれ育ち、デザイン専門学校進学のため上京しました。東京が一番長いですが、諏訪にちょっと戻ったり、他の土地にも住んだりしながら約25年ぶりに帰ってきたUターン組です。デザイン専門学校ではアニメーション制作を専攻して、卒業後は東京でアニメ背景美術の会社に就職しました。
ニールさん/私はネパールの首都、カトマンズからバスで6時間ぐらいかかる地方の出身です。故郷には大学がなかったので、大学進学のためカトマンズに行き、卒業後はそのままカトマンズで就職しました。主にトレッキング客をサポートするための旅行会社です。お客様はヨーロッパ、特にフランス人が多く、日本からも多くの方が来てくれました。最初は英語のみでガイドしていましたが、現地の日本語学校に1年通って日本語を習得し、日本語でもガイドができるようになったんです。
美佐さん/私はもともと旅行好きでした。新卒で就職したアニメの会社に勤めて10年くらい経ったとき、友人がボランティアのためネパールに長期滞在することになり、「寂しいからちょっとだけ一緒に来てくれない?」と誘ってくれたんです。ネパールに特別な興味を持っていたわけではないですが、好奇心から「行ってみたい!」と返事をして、会社を2ヶ月休職して出発しました。長期滞在型の旅行ですね。
訪れたのはちょうど「ダサイン」というネパールのお正月のような時期でした。国の祝日であり、田舎に帰省する方も多く、みんな10日〜2週間ぐらいはお休みをとります。ですからカトマンズではお店やレストランもほとんど休業してしまいます。静かなカトマンズにいても面白くないなーと思っていたら、友人の紹介で知り合った彼(ニールさん)から「田舎のお祭りを見てみませんか?」と誘われたので、帰省に同行させてもらいました。乗り切らないからと、屋根に人や荷物を乗せているようなバスに長時間乗ったりして(笑)、なかなか大変でしたが面白かったです。
カトマンズでは、普通に暮らすことを楽しみました。道端で野菜を買って、アパートでお料理したりして。そして、トレッキングなどネパール国内の旅行も楽しみました。
ネパールは、人がとにかくのんびりしていて、フレンドリーでしたね。日本語を話せる人も多かったし、子供や学生は外国人でも気にしないで英語でどんどん話してきます。観光立国なので、日本人より英語に触れる機会は多いんでしょう。
インフラは遅れていて、不便なこともありましたが、慣れてしまえば、暮らしやすい国だなという印象でした。
2ヶ月後に予定通り帰国し、会社の仕事に戻りました。それから2年間、以前と同じように働きましたが、彼とは連絡を取り続けていました。いわゆる遠距離交際ですね。互いに結婚を意識するようになりましたが、本当に生活を共にできる人なのか離れたままではわからないので、ネパールに住んでみようということになりました。
会社を退職し、学生ビザを取得して、今度は1年間の滞在です。大学附属の語学学校でネパール語を習いましたが、さっぱり読めなかった文字も、ちゃんと読めるようになるんですよ(笑)。「あいうえお」みたいに習って。この一年間で彼の家族とも意思疎通ができるようになり、仲良くなることもできました。
1年間の滞在が終わって帰国するときには、結婚の意思も固まったので、彼も来日して一緒に暮らすことになりました。ネパールに住みたいけど、経済的には日本で働くほうがいいので、しばらくは日本にいようと思ったんです。でも、だんだん「現実的には長く日本にいることになりそうだな」と思い、東京でアニメーション背景美術の会社に再就職しました。新卒で仕事を始めた頃はまだ手描きの時代でしたが、二社目ではPCも使われていたので、デジタルでの作画スキルも身につけました。この仕事は二社目を退職したあとも業務委託として続けています。今はリモートワークという呼び方もありますが、当時は「外注さん」(笑)。PCさえあればどこでもできるので、実家の都合で茅野に3年ほど戻った時期なども続けることができました。
ニールさん/日本に来た当初は印刷会社で働きました。彼女が実家の都合で茅野に戻った時期には実家の会社を手伝ったり、他の仕事もしました。
美佐さん/でも、料理の仕事ではないです(笑)。
ニールさん/ではないね。ここを始めるまで料理の仕事はしたことがなかったです(笑)。
美佐さん/日本ではインド・ネパール料理店のシェフとして来日して、そのあと独立するネパール人が多く、うちもそうなんだろうと思われている方が多いので、よく驚かれます。
ニールさん/でも、彼女が「ネパール料理のお店を始めたい」っていうから(笑)。家で食事を作るのはいつもしていることですが、お店でお料理を出すとなると話が違います。やるのならきちんとやろうと、ネパールに戻ってレストランのシェフ志望者向けの料理教室に入りました。1ヶ月の集中コースです。内容はネパール家庭料理だったのでメニューは自分が日常的に作るものとあまり変わりません。でも、自分の感覚だけで作るのとは違って、きちんと分量などを記したレシピがあり、安定して作れるようになったことはとても役立ちました。
美佐さん/料理の仕事はしたことはなくても、彼のお母さんやお姉さんも料理上手で、美味しいものを食べて育ってきたのもよかったのかもしれないですね。
美佐さん/ずっと古民家でカフェをやりたいなと思っていたので、2015年ごろに諏訪に戻ってきてから不動産屋さんにもお願いしていました。この場所に決めたのは、建物が大きすぎなくて、お店をやるのにちょうどいいなと思ったからです。建物を買ってから、自分たちで2,3年かけてちょこちょこ直していました。でもキッチンだけは業務用の厨房に改装工事をする必要があります。とはいえ工務店に頼むほど大きなリノベーションではないので、小さい仕事をお願いできる大工さんを探していたんです。
2019年夏、知人の家に遊びに行った際に知り合った方にそんな話をしたら「いい大工さんを知っているよ」と、ぴったりの方を紹介していただきました。その大工さんも移住されてきた方で、私達の意図を汲んで仕事を引き受けてくれたんです。そこから一気に準備が進み、2019年の年末までには工事も終わりました。
2020年の年明け。開店準備はできていたのですが、コロナ禍が始まってしまいました。世間では休業するような飲食店もたくさんあり、とてもレストランをオープンするような状況ではなかったので、しばらく様子を見ることにしたんです。2020年の秋になっても状況は変わらなかったので、ランチのみですが営業を始めることにしました。でも大声で「オープンしました!」と広告をして、たくさんの方にきていただくこともできないので、諏訪地域の飲食店の情報交換をするFacebookグループでそっと開店お知らせをした程度のスタートでした。その後、姪が「Instagramは絶対やらなくちゃ!」と強く勧めてくれたので、お店のメニューや営業案内の発信を始めました。また、タウン誌でも紹介していただいたりして、少しずつお客様に来ていただけるようになりました。
美佐さん/「ダルバート」のダルは豆、バートはごはんの意味で、日本の「ごはん、汁物、主菜、副菜」のようなイメージのセットをワンプレートでいただきます。日本人にはとても合うと思うんですよね。漬物や和え物などの野菜の副菜をちょっとずつ数種類食べたり、いつもごはんと汁物があったり、豆でたんぱく質をとったりする共通点があります。
お盆のようなステンレスの大皿の真ん中にごはんを配し、それを囲むように野菜の副菜、主菜のカレー、汁物のダルスープを置きます。よく「ナンはないんですか?」と聞かれますが、ネパールではナンではなくてお米を食べます。このごはんに、少しずつダルスープやカレーをかけて、さらに副菜を混ぜたりして味の変化を楽しみながらいただきます。
味付けの基本は塩とスパイス。醤油やお味噌のような調味料はなく、塩気のある調味料は塩だけです。私はアチャールという野菜の漬物には、砂糖をほんのちょっと入れることもありますが、ネパールではお料理を砂糖で甘くすることは基本的にはありません。
カレーもコトコト長時間煮込む、ということはなくて、材料を油で炒め、塩とスパイスで味付けしてさっと煮る。いわば「炒め煮」ですね。ネパールの方が作っているところを見ていても、本当にちゃちゃっと短時間で作っています。
いろんな豆をカレーや副菜にしますし、よく食べますが、お肉も食べます。食べるのはチキンと山羊肉。メニューにはマトンと紹介していますが、うちで出しているのは山羊肉です。山羊肉は手に入りにくいのであまり味のイメージがわかないと思いますが、みなさんが思い浮かべるマトンと全く同じです。マトンは苦手だけど、あえてチャレンジしてみたいというお客様もいらっしゃいます。スパイスのおかげか、「マトンが食べられた!」という方もいらっしゃいますね。(編集部注:日本語の「マトン」は羊肉と山羊肉の総称。)
野菜の副菜は、今日出しているものだと、漬物の「アチャール」、マリネのような「サデコ」、青菜炒めの「サーク」、芋のスパイス炒めの「アルジラ」などです。
「アチャール」は漬物の総称で、日本の漬物に、浅漬、奈良漬け、といろいろあるように、たくさんの種類があります。浅漬だったり、発酵させて酸味を出したものがあったり。今日は大根、人参、きゅうりを甘酸っぱい浅漬にしています。
スパイスの他、トマトも味つけに使いますね。トマトには旨みがありますから。今日は青菜炒めの「サーク」に使っています。
ごはんの上の薄いぱりぱりしたものは、ひよこ豆のおせんべい「パパドゥ」です。ごはんの上にぱらぱらとふりかけて食べます。
スプーンとフォークをお出ししていますが、お客様の中には手できれいに召し上がる方もいらっしゃいますよ。お手拭きを出していますから、よかったらチャレンジしてみてください。
美佐さん/30代、40代の方が多いかな…。ちょっと驚いたんですが、ご家族でいらっしゃるお客様も多いんです。ご自分たちが召し上がりたいとき、お子さんもつれていらっしゃるという感じでしょうか。ネパールでは子ども向けの料理はありません。離乳食のような赤ちゃん向けのものはわかりませんが、小さい子どもでも大人と全く同じものを食べています。辛い、辛いっていいながら(笑)。でも、日本ではそういうわけにはいかないので、ネパール料理ではないですが、甘口のキーマカレーもメニューに入れました。スーパーで子ども用のレトルトカレーを買ってきて、辛味やスパイスのきかせ具合を確認しながら「こんな感じかな?」「このぐらい?」と試作して完成させました(笑)。
また、ベジタリアンやヴィーガンの方も多いですね。自分たちは何でも食べるので、はじめはベジタリアンとヴィーガンの違いもわからなかったんです。でも、ベジタブルカレーがありますし、野菜の副菜も豊富ですから、注文の際におっしゃっていただければ対応できます。
(編集部注:ベジタリアンは肉と魚介類を食べない。ビーガンはそれに加えて、卵や乳製品等の動物由来の食品や、ハチミツも摂らない。)
ニールさん/夜の営業を始めたいですね。ランチのようなセットではなくて、コース料理を楽しんでいただきたいです。
美佐さん/お酒もお出しして。ネパール人も結構お酒を飲みますよ(笑)。ネパール産のビールもありますし、あとはククリラムというラム酒が名物です。意外かもしれませんが、ネパールでもラムの原料のさとうきびが栽培されているんです。ヒマラヤの登山口として有名で標高も高いので、八ヶ岳周辺と同様に冷涼な土地と思われていますが、実際はかなり暖かいんですよ。緯度が奄美大島と同じぐらいだからかもしれません。冬でも薄着で過ごせるし、半袖の人もいるぐらいです。
夜にはネパールのお酒と一緒にコースメニューをゆっくり味わっていただきたいですね。少人数の予約制で、穏やかに始められたらと思っています。
ライター/萩尾麗子 写真/清野良江
(この記事は2022年3月取材時の内容です)
好奇心いっぱいの元気な美佐さんと、ゆったりとした微笑みをたやさないニールさんご夫婦のこれまでのお話を伺うと、まるで「旅」の話をきいているようです。ここ2年ほど誰もが遠ざかっている「旅」という高揚した感覚を久しぶりに味わい、ネパールやお料理への質問がつきませんでした。
また、偶然ですが、取材チーム(ライター&カメラマン)は二人とも、普段から体質的にお肉が苦手で控えることもあるため、野菜がメインの「ダルバート」は本当に嬉しい一皿でした。「ダルバート」なら、パンチの効いた食事を楽しみたい人、豆や野菜を味わいたい人、両方が満足できそうです。
ご家族やお友達と、食卓の旅を楽しんでみてください。
Ananda Spice Café
住所:〒392-0015長野県諏訪市神宮寺767−1
電話:TEL 07015657313
営業時間:11:30~16:00LO(17:00閉店)冬期営業時間
定休日: 水曜日 毎月第三木曜日
駐車場: 店舗横に3台
Face book https://www.facebook.com/ananda.spicecafe
Instagram @ananda_suwa
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